長善寺は新潟市西区にある「織田信長」公にゆかりのある寺院です

長善寺は今から500年ほど前、戦国の武将 織田信長の力を借りて創建されたと伝わるお寺で、新潟市内では最古の寺院のひとつです。寺宝の「釈迦三尊仏」の絵像は、鎌倉時代の作で、織田信長から贈られたという記録が残っています。
当寺院は平成4年に西堀の土地から小新の土地に本堂・墓地・付属の保育園まで平成の大移転をいたしました。
境内の僧坪数は7500坪あり、その中に本堂・墓地・付属の「るんびいに保育園」などの施設があります。
また牡丹寺としても有名な長善寺では、年に4~5回の大法要をおつとめしております。
地域の皆さまの心の拠り所でありたいと願っております。どんな小さなお悩みでも是非一度ご相談ください。



御本尊

阿弥陀如来
浄土宗の御本尊は「阿弥陀如来」です。
長善寺の本尊「阿弥陀如来」は元禄元年の作で、光背は全体が舟の形をしたように見えます。
脇侍(きょうじ)は、法然上人と善導大師です。
(脇侍とは、仏教彫刻・線画において、ご本尊の左右に控える存在です。)

阿弥陀如来とは
仏教において、修行をして悟りを開き如来になったとされる仏様です。浄土教においては、極楽浄土の御仏でご本尊となります。阿弥陀如来は、その功徳によって全ての者を極楽浄土へ導くとされています。
どんな人でも「南無阿弥陀仏」を唱えることで、極楽浄土へ往生できるというのが浄土宗の教えであり、阿弥陀如来は全ての人を救う御仏として尊ばれています。

法然上人とは
法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧です。
はじめ山門で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)法然43歳の時、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説きました。これが浄土宗の立教開宗の年とされ、のちに法然は「浄土宗の開祖」と仰がれました。

善導大師とは
中国、隋(ずい)時代の後半に生まれ、幼くして出家をされたのち様々な経典を研究したが全ての人を救うことができないと悟り、「お念仏によって、全ての人が救われる」という浄土教の教えを学びました。
当寺、首都であった長安で教化活動を行い、多くの大衆に受け入れられ、そのお念仏の教えをひろめられました。善導大師は、お念仏をひろめる一方で、大仏を造る事業に関わったり、寺院の修復に携わるなど、芸術、建築の分野でも活躍されたと伝わっており、日本の浄土宗の基礎に深く影響を与えた人物と言われています。
観音堂

観音堂
観音堂には、当寺で最も古い鎌倉時代に作られたと伝わる観音菩薩立像をご本尊として、長善寺を創設された信誉岌察上人をはじめ、歴代のご住職のご遺徳を偲びつつ、檀家様よりお預かりしたご位牌を安置してご供養するお堂になります。



長善寺の寺宝
釈迦三尊像の絵像(鎌倉時代:巨勢派の絵師)
お釈迦様を中心として、左右の脇侍(きょうじ)に文殊菩薩と普賢菩薩を配した絵像です。鎌倉時代の作と伝わっており、織田信長公から贈られたという記録が残っています。
幾たびかの火災によりほとんどの寺宝が焼失しましたが、この絵像のみ現存しています。
描かれた年代から考えても実際に見られたことがないであろう、おのおのの菩薩がお乗りになっている「象」や「獅子」もとてもよく模写されており、文献を参考にしながら描いたであろう絵師の技巧に感嘆する作品です。
非常に古い時代の作品であり、機関に申請すれば、文化財として保護される可能性が高いと思われます。



光明会創立者:辨栄上人(べんねいしょうにん)筆 仏遺教経


十二ヶ月花鳥図屏風(仮名):江村春暉(えむらしゅんき)作


幕末に生れた郷土の画家「江村春暉」による十二ヶ月花鳥図屏風(仮名)安政6年(1869年)作。画像では、全体が見れるように撮影しておりますがひとつひとつを見ると非常に精密に描かれており、彩色も見事という他ありません。
著名な画家の作品ではありませんが、幕末に活躍した「谷文晁」の作風が伝わる見事な掛軸です。
江村春暉
江戸時代文化3年頃、三島郡気比宮村(現:長岡市気比宮、旧:三島町気比宮)に生れる。谷文晁に師事して画を学んだのち、諸国行脚してさらなる研鑽に努めた。50歳を過ぎて蒲原郡小須戸町に居住。明治13年に没したと伝わる。「北越詩話」によると仙台の出身といわれ、別号を「松庵」「桃陰」といったと伝わる。
花鳥図屏風(仮名):行田魁庵(なめたかいあん)作

幕末に生れた郷土の画家「行田魁庵」による花鳥図屏風(仮名)作年不明(幕末の作と思われる)。
日本画の屏風絵であり、鳥が躍動的に描かれ、植栽の細密さに目を見張ります。
その画風は初めに師事した画家より、才能を認められ幕末の文人画家で尾張南画の代表的画家である「山本梅逸(やまもとばいいつ)」の門下に入り、その画風をとてもよく感じる作品です。
行田魁庵
江戸時代文化9年12月、新潟町神明町(古町通1丁目)に生れる。家は代々神明宮の神官を務めた家柄で幼い時から画を学び、多くの画家に師事した。京都にて修行していたころに池内陶所、山本梅屋、頼三樹三郎と交流する。のち各地をめぐり修行を重ね、39歳で帰郷して新潟にて子弟に教授して画の道を広めた。明治7年に没したと伝わる。
花鳥画を得意としたが、信濃川に入る千石船を描いた「新潟入船之図(明治4年)」は、新潟市の指定文化財になっている。
鬼麿句碑(おにまろくひ)

秋風のさそひに来るや枕もと
鬼麿(おにまろ)・・・江戸時代後期の郷土出身の俳人。